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2004
06 15(火)

村上春樹「レキシントンの幽霊」

書籍名:レキシントンの幽霊
著者名:村上春樹
出版社:文藝春秋(文春文庫)

人に勧められて、どっかからか村上春樹を読み始めて、そのままずっと追っかけたり遡ったりして読んでいるのですが、これもつい最近読みました。
奥付をみると1999年ですから、もう5年も前ですね、世界が滅びたのは(爆)

よく見ると単行本は1996年ですから、もう十年近くも前ですね。

ホント、そういう昔のことを考えると、単なる「食わず嫌い」で村上春樹を読んでいなかったというのは、幾分か損をしているなぁ、と思わなくもありません。まあ、若かりし頃(いつだ、とか言うな)には「ノルウェイの森」のようなゆらゆらとしたペースに耐えられなかったのかもしれません。(別に青春ブッ飛ばしていたってワケでも無いんですけどね。)

閑話休題。

本書は7つの短編による短編集。雑誌に掲載された短編の集まりですので、それぞれがこぢんまりとしたものです。そして決して、「こぢんまりとまとまったりしていない。」

不思議な短編集です。短編というと、どうしてもカッチリとオチがついていないとイケナイ感じが(自分は)しているし、オチがつかないと「ぐわぁぁぁぁっ!!!」って感じに吠えたくなるモンですが(なりませんか?)、この短編集の作品にはそれがあまり感じられません。

ー余韻、というのでしょうか、こういうのは。

そうか、村上春樹という作家は余韻の使い方が上手いのか、と、なんか妙に納得してしまいました。(あー、でも、すいません、この本の「氷男」とか、やっぱり、納得できません(笑)。)
もしかしたら何か高尚なコトのメタファーなのかも知れないし、単に一瞬の心象世界を描いただけなのかも知れない。

まあ、そんなことはどっちでもいいのです。

全ては読後の余韻を味わうためにあるのだったらー。

などと、トンデモないことを考えてしまったり、するのでした。

[EOF]

投稿者 ogre : 2004年6月15日 | コメント (0) | トラックバック

2004
07 05(月)

長谷敏司:楽園 戦略拠点32098

書籍名:楽園 戦略拠点32098
著者名:長谷敏司
出版社:角川書店(角川スニーカー文庫)

戦略拠点32098 楽園

昔からライトノベルはきらいじゃありませんが、最近は質の高いものがおおいですねぇ・・。しかも新人の、コンテストの金賞作品。世の中に才能というのはどれほど隠れているのでしょうか?

さて、そんな訳でネタに困った時の書評です(笑)
ネタバレ必至ですのでお気をつけ下さい。

遙か未来において行われる人類同士の星間戦争。身体のほとんどを機械化した兵士のヴァルガは、敵が必死になって守る謎の惑星に生きて降下する。そこで出会ったのは敵の兵士と生身の少女、マリア、広がる自然、地表に突き刺さる宇宙戦闘艦の墓標ー

そこはいったいなんなのか?「楽園」というタイトルが読者にも問いかけます。それは本当に楽園なのか? しかし、楽園には無いはずのほのかな秘密の臭い。それは最後に、徹底的な人類の横暴として突きつけられます。
登場人物は3人。その中でたった1人の生身の「人間」マリア。この楽園の天使。それが幼い少女の姿をしているのは、そこに秘められた真実の暗喩か、それとも商業的な問題か(笑)。

人は愚かで、残酷なものです。「楽園」の存在が、マリアの存在がそれを示しています。しかし、それだけではないはず。その向こうに透けて見えるなにかが、涙を誘います。

よい、話です。

投稿者 ogre : 2004年7月 5日 | コメント (0) | トラックバック

2004
07 27(火)

村上春樹:雨天炎天

書籍名:雨天炎天
著者名:村上春樹
出版社:新潮社(新潮文庫)
雨天炎天?ギリシャ・トルコ辺境紀行

これほど読後感がすがすがしくない旅行記も少ないのでは無かろうか・・と思ってしまう、そんな本。

村上春樹が、自身の辿ったギリシャ・トルコの辺境をつらづらと書いているのですが、普通だったら読後に湧いてきそうな「ああ、いってみたいなぁ」とか「見てみたいなぁ」というのがあまりない(笑)。まあ、ギリシャの聖地をお遍路参り(それもギリシャ神話の聖地などではなく、おそらくキリスト教の中でもマイナーであろうギリシャ聖教の聖地)するってんだから、あまり興味がそそられそうも無いのも事実。たとえば外国人観光客がガチ徒歩で四国のお遍路参りをやり、その体験をガチ生で書いたらそれを読んだ外国人は「ソノオヘンロマイリシテミタイデ〜ス!」(←どんな外人じゃい)なんて絶対思ったりしないであろう、そんな感じ。

後半はトルコの国境・山間部地帯をイラクによるクルド人大虐殺直後に巡るという、考えようによっては自殺行為に近いのでは無かろうか?という旅行。一体、村上春樹にせよ新潮の編集者にせよ、なにを考えてこんな企画を組んだのだろうか?なにか、そこで作家村上春樹なら発見できるダイヤの原石でも見つかると思ったのであろうか?
終わり方も酷くいい加減、というか、「もう正直疲れたのでカンベンしてください」という感じにあふれている。(まあ、連載が終わったんだろうけど。)全体的に、「辛かった話」「怖かった話」「不味かった話」がメインで構成されているので、旅行記で心を海外に飛ばしたいわ〜なんて甘いこと考えていると失敗します。オススメしません。

まあ、考えて見りゃ「雨天晴天」とかじゃなくて「雨天炎天」だものなぁ。タイトルからしてつらそうだものなぁ。

投稿者 ogre : 2004年7月27日 | コメント (0) | トラックバック

2004
08 15(日)

シドニー! コアラ純情編・ワラビー熱血編

書籍名:シドニー! コアラ純情編・ワラビー熱血編
著者名:村上春樹
出版社:文春文庫
シドニー! (コアラ純情篇)
シドニー! (ワラビー熱血篇)
わかりにくいんですが、コアラが前編でワラビーが後編です。
んで、つまりこれは、村上春樹によるシドニー・オリンピックの観戦日記です。
わかりやすいですね。

もうシドニーオリンピックから4年もたつのかと思うと恐ろしい感じがしますが、思い出そうとすると不思議に記憶もあいまいで、なるほど、それなりに時間がたったのだな、と実感するのであります。

さて、なんにおいて村上春樹サンってのは人と違う観点を持っているというか偏屈というか、まあ、そもそもスポーツジャーナリストではないわけで(ましてやプロのアスリートではないわけで)、そういう意味では「より一般的な視線」なのかもしれない、と思うところもある。いやいや、村上さんはニューヨークマラソンとか走ったりする猛者(?)だから、一般的視点とは言いがたいかもしれない。でも、プロのそれとは明らかに違う視点、それがこの本の面白さだろう。

村上さんが「Number」からの「仕事で」(これがまあよく強調されるんだ)シドニー・オリンピックを見に行って、オーストラリア大陸を丸一日ドライブしてみたりとかって相変わらずワイルドでヘンなことをしつつ、淡々とその工程を記録する。
ある事件がおきるまでは毎日書いたものを東京にメールしていたというから、それまでみたいに「とにかくテーブルを見つけたら手帳に書き付ける」訳ではないので、全体的に落ち着いているし、逆に言えば荒々しさ、旅の生々しさみたいなものはなくなっている。(「雨天炎天」と比べても仕方がないんだけど。)
序と末に、選手へのインタビューが入っている。シドニーオリンピックのはるか前と、直後に行ったものがそれぞれ。考えようによってはちょっとイヤラシイ。でも、それがオリンピックというものの「今の」ありようをとてもよく映している。村上さんが描写する、バカバカしくもすばらしいお祭り騒ぎ。そこを傍観者として、参加選手として、あるいは参加しなかった選手として通過するとどうなるのか。その対比が読後に「来ます」。最後の2章は、しっかりあごを引いて読んだほうがいいと思う。オリンピックが終わった後、ちゃんと現実の生活に戻るときのように。

投稿者 ogre : 2004年8月15日 | コメント (0) | トラックバック

2004
08 22(日)

二ノ宮和子:のだめカンタービレ

書籍名:のだめカンタービレ
著者名:二ノ宮和子
出版社:講談社コミックス

のだめカンタービレ #9 (9)


「カンタービレ(歌うように)」なんて指示記号は、自分の持っているピアノ教本には載ってません。つか乗ってたら歌うし。(歌うと弾けないし。)
「歌うように」なんて適当な指示をしておきながら「譜面どおりに弾け!」てなどーゆーことよ?とシロウトは思わなくもない。「作曲者の意思は絶対だ!」なんていいながら「個性がない!」とかって言われても。
・・・そんなのをなんとなく「わかった気」になって読んでいくのが楽しいコミックです。

少女マンガ系の基本に違えることなく、とにかく濃いキャラクターでいっぱい。
主人公:世界的ピアノ奏者の息子でヴァイオリンを弾きこなし、音大のピアノ科で指揮者を目指す金持ちボンボンの「オレ様」(ただし致命的な弱点あり)。
ヒロイン:ピアノの天才にして変態。「世界不思議発見でどうぶつ奇想天外」
友人:アフロにヒゲのオカマ、中華屋の息子で金髪ピアスのヴァイオリニスト等等
師匠:無類の遊び好きセクハラ帝王で世界の巨匠

・・・・・ああ、濃い。濃すぎる。

後半になってやっとまともな人たちが出てきますけど、いずれ音楽を最高のレベルでこなす人たちがどの程度「まとも」の範疇に入るかは議論がいるところです。(←楽器を弾けない男のヒガミ。)
作者の○○は私どもの仲間でいらっしゃるようですが、そういう意味では「すごく楽しそうで幸せそうな音楽のイメージ」を具現化している、と言えるでしょう。だから、逆に、ちゃんとピアノやらなんやらやっている人には「そんなバカな!」って言われるかもしれません。まだ聞いたことはないですけど。是非、「向こう側の」人たちに読んでもらって、感想を聞きたいものです。

自分としては、作中で「超有名曲」とか紹介されている「ラフマニノフのピアノ協奏曲2番」とかをオンラインでさくっと買ってきて、どれくらい有名なのか聞いてみることにしたいと思います。(もちろん、聞いたことがなかったりすると思うのですが。)

投稿者 ogre : 2004年8月22日 | コメント (0) | トラックバック

2004
09 25(土)

村上春樹:アフターダーク

アフターダーク
(この感想は、一回読了後にとりあえず走り書きで書いているものである。)
村上春樹は、ある意味原点に立ち返って「映画」を書こうとした。
それは、紛れもなく村上春樹という作家のひとつのはじまりであり、終わりであろうと思う。

おそらく、賛否両論別れるであろうと思う。村上春樹という作家は、よかれあしかれ熱狂的なファンを持っているし、そういうファンはどのような事であれプラスに考えるものだからだ。(たとえばMacintoshのファンのように。ということは、村上春樹のよさは、Macintoshのような良さ、と言えるのだろうか。まあ、それはまたの機会に。)

そして、その「村上春樹らしさ」は、ひどく唯物的な舞台に置き、ルポルタージュやエッセイとは違う光を当てた時、「ロードムービー風」という形式を取らざるを得なかったのではないか。望むと望まざるとに関わらず。

村上春樹の「代表作」は、良くも悪くも60年台の作品だ。それを知らない僕は、それを一種のファンタジーとして読むし、知っている人は自分を投影させて読むだろう。「ねじまき鳥」や「世界の終わり」といった作品は、そのファンタジー性を拡張させた作品であったし、エッセイや「神の子どもたちはみな踊る」「アンダーグラウンド」といった作品は、現実へのフォーカスをより一層突き詰めた作品であったという印象がある。

「アフターダーク」は、その二つの世界を重ねあわせようとする試みだ。それは「少年カフカ」でも行われていた事ではあるが、正直、四国高知は僕にとってもファンタジーの中だ。(ある意味、「表参道の紀ノ国屋」も同じファンタジーの装置ではないか、と思うことがある。)それを、都会のデニーズの中(知っている人には、それが渋谷道玄坂を昇った右側の二階にあるデニーズではないか、と容易に想像できる。)からはじめることで、よりリアルな世界にフォーカスしようとした。そしてそこへ独特の不条理なシーンを挿入することで、現実の街という舞台装置を十二分に使い切ろうとした。(そしてその試みは失敗した。)
読者は、そのひどく丁寧な「ト書き」によってロードムービーのような画面を想像することができる。(作者が、あえて「カメラ」という視点を明示して導入していることからも、それが作者の意図であることは明らかだ。)それそのものが作者の目的であるかのような、そんな具合に。(と書いてて思ったのだが、この作品はまるで岡崎京子の漫画みたいだよな。)

例によって、作者の提示する全ての不条理に結末が語られることはない。いや、この物語そのものに結末が語られることがない。当然だ。日が暮れて、夜が更けて、真夜中になって、朝がくる。当然、また日が暮れる。結末などは存在しない。そこに何らかの救いはない。救いはただ暗示されるだけで、読者の指の間だからすり抜けてしまう。それをつかみ取ろうとすれば村上春樹の罠にはまるだけだ。
「これは僕たちの物語」だとどこかに書いてあった。だとすれば、僕たちの街に救いはなく、僕たちの毎日に救いはない。ほんのわずかの善意と、なにかのしるしのように流れる涙だけが、僕たちの救いを「ただ」暗示している。
そしてまた明日は来る。

おそらく村上春樹にとって、この作品は習作に留まるべきものだったのだろう。しかし、(おそらくはあえて)彼はこの物語を公開した。
なぜか?
それは、村上春樹の次の作品においてのみ明らかになるに違いない。

投稿者 ogre : 2004年9月25日 | コメント (5) | トラックバック

2004
10 03(日)

アフター・アフターダーク

最初に、自分の立場をはっきりいさせておきましょう。
「僕の好きな村上春樹作品は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と『ねじまき鳥クロニクル』」です。
信仰告白おわり(爆)

さて、世の中的に微妙な反応らしい『アフターダーク』。読まれた方ならご理解頂けると思いますが、各界に衝撃を与えて書評欄を埋め尽くし、大ベストセラーになるような物語でないのはマチガイありません。
2周目読了(自分は物語モノは必ず二回読みます)したあとで前回の感想(えーと、9月の25日のブログ参照)を読み返しても、自分のファーストインプレッションがそんなにずれているとも思わないでいます。

「これまでの村上春樹と何が違うのだろう?」

まさか、出版不況の影響でプロモーション予算がなかった、などという話ではありますまい。
首をひねりながら、googleキーワードつっこんで、いくつかの感想サイトを歩いて回ってみました。
(参照させて頂いた感想サイトは末尾にURLを置かせて頂きます。ブログにはトラックバックさせてもらいました。)

一件一件の感想・ブログにツッコミをすることは野暮なのでよしますが、(やるなら直接コメントしますよ、ハイ。)概ねの感じとしては、「わざわざブログやスレを立てる人は好意的、感想掲示板に書く人の半分は否定的」といったところでしょうか。ハードカバー本をわざわざ買ったと言うことは、母集団的には村上春樹ファンか、少なくとも嫌いではない方がほとんどだと思います。
まあ、ブログや1の人が好意的なのは何となくわかります。好きなものだから紹介する、というのがあるでしょう。好きな人なので好きな人どうしリンクが張られてgoogleスコアが高くなる、正のフィードバックです。ブログでこき下ろしても、こき下ろす人どうしがリンクする利点ってあまりありませんから(嫌な感想をわざわざ探したりもしないでしょ?)、まあ、どこかにはあるんでしょうけど、さすがにgoogleサーチの3ページ目以降を見る元気はありませんでした。(3つもキーワードかけてるのに、ずいぶんひっかかりますよね・・)

さて、そんな訳で、自分の感覚としては「意見が分かれている」という印象が強いこの作品。(それに言及しているブログもありました。)自分にしても、この物語は微妙に感覚からずれていて、首をかしげながら読んでいるようなところはありました。

その原因はなにか? 
考えてみました。

ひとつには、その「脚本的」文体があります。(これは、前の感想でも書きましたけど。)
これまでの村上春樹作品が「僕」という一人称を(しかもそれは決して「俺」ではなく)多用していたのと対照的に、この物語では「カメラ視点」という特異な視点を具体的に取り込んでまでその有り様を変化させている。「ロードムービー的」「脚本的」「演劇的」、もっと言ってしまえば「映像的」、もっともっと極端に言うと「漫画的」。小説の読者にとって、その視点の自由さは比較的読者の自由にできる領分であるはず。それをねじ伏せて「ハルキ流」の視点を強制されることに、ものすごく「ストレス」を感じることになるのでしょう。それは読者の想像力の一部を奪う方法でありながら、同時に最大限に想像力を働かせないと「ついていけない」ことになる。慣れるまでは、その情景を具体的にイメージするのに時間がかかり、物語のテンポが掴めない。村上春樹という作家のファンで、その物語をジックリと読もうとすればするほど、そのギャップにとまどうことになる。(まあ、一度慣れてしまえば問題ないんですけどね。)
作家が読者に苦行を強いる理由があるとすれば、それはそこに作家が表現しようとする何かがある、ということでしょう。それがなにか、(例によって)イマイチ掴みかねるのでより一層納得がいかないのです。(納得いかないので、人によっては怒りだすのでしょうな。)

二番目は、その「古さ」。前の感想でも書きましたけど、それが自分にとって「ファンタジー」と感じられるのであれば、話が60年代安保(僕、生まれてネェよ)だろうとバブル期の青山(見てみたかったなぁ)でも古さは感じないものです。しかし、それが現代の「大都会」(自分は渋谷だと考えていますけど)にあって、デニーズやセブン・イレブンの中にあって、携帯を手にして語られる言葉にしては、ちょっと古くさすぎるのですよ。

まあ、もっとも、村上春樹という作家にとって、デニーズだろうが渋谷だろうが携帯だろうがタカナシの牛乳だろうがコンピューター・エンジニアであろうが、それは単なる記号であって何でもいいに違いありません。だから舞台となる都市名だって明示されていないし、日が昇って全てが明るく照らされる前に物語は終わる。しかし、それにしても、この物語は現実に“近すぎる”のですよ。
そのくせ、近すぎるわりにヘンなところがズレてましてね、デニーズに入った時に「デニーズへようこそいらっしゃいました」なんて声をかけられることは絶対にないのです。少なくとも我々の世代のコモンセンスとしてはありえない。(そお、思いません?)デニーズの挨拶といえば「いらっしゃいませデニーズへようそこ!」でしょう?わざわざデニーズに出かけて取材したので間違いありません。(もっとも、終電が過ぎたあとのデニーズでは違うのかも知れませんケド。)まあ、村上春樹がデニーズを取材してるなんてのはあんまり絵になりませんけどね。ちなみに、今のデニーズにはチキンサラダなんてありませんでした。(シーザーサラダ風チキングリルならありましたが。)
もっとも、これがジョナサンだったら「ジョナサンはドリンクバーなのでコーヒーのおかわりなんざ持ってこない!」っていう微妙なツッコミが発生したところだったんですけど。

あとは、トラブルシューティングのために夜を徹して仕事をするSE。そりゃいいんですけど、そんなSEが自分をゴルフのトップ・プロに例えるなんざオヤジっぽすぎますし、だいいち思考より早くキーを叩いてトラブルシュートするなんてことはマア普通あり得ない、あまりにプロトタイプ的な「コンピューターのプロ」のイメージでしょう。それに、夜を徹してトラブルを解消したら、そのまま朝までいないと技術者としてマズイでしょ、やっぱり。(だいいち、本当にそんな状況ならノンキに女買ったりするようなヒマねぇっつうの。)

「地下室でのジャズの練習」というのもいかにも今っぽくないし、眼鏡をかけた女の子が難しそうな本を読んでいるっていうのもいかにもありえなさそうだ。(眼鏡っ娘萌えを狙ったんでもないだろうに・・)リダイヤル機能のトリックなんて推理小説だって今時使わないし、力任せにクリックしたアイコンで偶然にソフトが動作する、なんてのもテレビドラマ的だ。うーむ、文句ばっかり言っているわりにはよく覚えているじゃないか、自分(笑)

そんな感じで、現実に近いクセに微妙にリアリティがない。むしろ、あえてリアリティをひとひねりしているような、そんな感じなんですよね。

そう考えてみると、この物語はやはりハルキ流ファンタジーの系譜として読むのが正しいのだろうか。つまり、頭の中の「フィクションレベル」をある程度切り替えておかないといけない。(島本和彦:吼えろペン4巻参照) そういう作品になれているとそれも苦にならないのだろうけど、一見して現代ドキュメンタリー風モノと判断するとそのギャップに苦しみ、怒ることになる。この作品に対する割れる評価というのは、そういうところから来ているのかも知れないナァ、と思いました。

http://af-site.sub.jp/blog/archives/000198.html
http://yukiya.main.jp/archives/000274.html
http://members.jcom.home.ne.jp/tana-masa/kansou/afterdark.htm
http://l.gree.jp/?mode=listing&act=bbs_form&list_id=12065
http://graffiti.oops.jp/blog/archives/000813.html
http://cgi.f16.aaacafe.ne.jp/~medalgm/syohyou/word0002.html
http://blog.livedoor.jp/freerider/archives/6648705.html
http://blog.livedoor.jp/groovegrease/archives/6820135.html
http://www.heartfield-web.com/item_212.html

投稿者 ogre : 2004年10月 3日 | コメント (0) | トラックバック

2004
10 10(日)

稀人

稀人
久しぶりに、ホラーに手を伸ばしました。

カメラマンである主人公・増岡の独り語りによって物語が進んでいき、そのファインダーを通した世界の中に現実と幻想が入り交じってくると、読んでいる方も「おお、来たか、来たか」という感じになってくるモノがあります。

男が地下鉄の構内で「扉」を発見し、死んだはずの(なにしろその死を主人公自身が映像に焼き付けたはずの)人物との邂逅。舞台が現実なのか、幻想世界なのか、主人公の心証世界なのか、そのあたりが曖昧になってきて、読者の立ち位置がぐらぐらしてきたところへ・・・・なぜか秘教的・オカルト的な言及がたたき込まれてくる。おお!なんとも懐かしい感覚ではないですか。登場人物がナゼかマニアックなオカルト知識を持っていて「普通知らねぇよ!」みたいな会話が展開されていく、このパルプ・フィクション的な流れ。(また主人公もそれについて言って、「なんでンなこと知ってんだよ!」というツッコミの対象になります。)それまでが「現実と非現実」(あるいは正気と狂気)の微妙な境界を歩いていただけに、この崩れ方はかなり無茶です。(←褒め言葉。)

そして、いつしか増岡の目の前に広がる『狂気の山脈』
・・・・・あれ?

いんやー、まさか今になって「テケリ・リ!テケリ・リ!」という声を聞くとは思いませんでした。(←褒め言葉)
どうでもいいすけど、「テケリ・リ!テケリ・リ!」という声はショゴスの声であって、『この都市の創造者』であろう「古のもの」の声じゃありませんから。増岡サン、勉強不足ですよ。

さって、その後、現実世界への帰還、再び妄想とも現実ともつかない世界が展開されて・・と思ったら、やおらMIBやジョン・C・リリーのECCO説が引用されたりしてまた別の不気味な世界へ。主人公はちょっとしたデムパさんなのではないか、だとしたらそれを真面目に読んでるこっちの立場はどーなるんだよ、と作者に毒づきながら読み進めると・・・・

・・・・あれ?

最後は「稀人」F自身の独白で終わりですか・・・・?

うーみゅ、なんなんでしょ、この中途半端さは。

まあ、ホラーなんだからスッキリしてもしょうがないんですが、それにしても中途半端な構成ですな。この、力業でECCOとかネットワークとか持ち出すやり方は、なんとなく「serial experiments lain」を思い出すところがありますな・・と思ったら、この作者の小中千昭氏、lainの脚本の人でした(爆)。
あー、それでなんかデジャヴを感じたんですね。きっと、こういう無理矢理なノリがこの人のやり方なんでしょう。構成的に破綻しているような気がしますが、「ホラーだし!主人公デムパだし!」って事ですませちゃうんでしょうか、やっぱり。

ファインダー越しに見えていた現実と幻想の境目、そこを扉一枚でラヴクラフト世界に持ち込み、さらにUFOだなんだの話題にすり替える。うーむ、普通の読者は置き去り。(lainの時もそうだと思いますけど。)まあ、角川ホラー文庫をわざわざ買うんだからって、「普通の読者」は想定していないのか。

うーん、やっぱり映画も見たくなってしまいました。(←謎。)

投稿者 ogre : 2004年10月10日 | コメント (0) | トラックバック

2004
12 19(日)

魔界都市ガイド鬼録:殺戮迷宮

殺戮迷宮魔界都市ガイド鬼録:殺戮迷宮

「マン・サーチャー・シリーズ」「ドクター・メフィストもの」にならぶ、魔界都市ワールドの作品。(もちろん、他にも魔界都市作品はいろいろありますけどね。)

以前、作者が何かの後書きで書いていたと思いますが、「なんでもあり」の魔界都市にして、秋せつらとドクター・メフィストを主人公にしてどうこうするのはだんだん難しくなってきています。何しろ最強の美形コンビですからね。菊池秀行氏も相当苦労して毎回この2人を困らせようとしてますが、最近じゃ「青春鬼」なんて、「魔王伝」以前のせつらの話を作ったりして逃げている感じです。

今回も「新宿一のマン・サーチャーは出張中」ということにして、しかもドクター・メフィストを無茶苦茶な方法で無力化して大苦労です。屍刑事は健在ですが、途中でどうも「あ、コイツこのまま暴れさせると話が終わっちまうよ」と思ったのか、なんだか分からん方法でやっぱり無力化させてしまうあたり、なんとも力業です。
そして得体の知れないギミック、すなわち「秘密兵器」「○○しか知らない古代の××」「亀裂の底の△△」を取り出してバタバタと話を展開させていく・・。さすがです、菊池秀行。設定や整合性に縛られた最近の作家にゃこれはできません。御大の力業、今にして絶好調と言えましょう。

張るだけ張って忘れたのか、〈亀裂〉の底から這い上がってきたライバルとか、巻半ばにして消えてしまった複線多数。(そういえば、あのデブは・・?)計算ずくなのか、御大をして「やっちまった」と頭を抱えているところなのか、次回作に期待です。

投稿者 ogre : 2004年12月19日 | コメント (0) | トラックバック

大人のための文章教室

大人のための文章教室大人のための文章教室

作者の清水よしのりという人は、自分の中ではどうもバスティーシュ小説家というイメージが強くて(ジャック&ベティとかね)、実はその後に本人の作とは気がつかずに読んだ本がいろいろあったりする、幅の広い作家さんです。

その作者が「正しい日本語の書き方を」といって本を出す訳ですから、そりゃ中身はおもしろいわけです。ある意味、自分の手の内を曝しながらTPOにふさわしい文体というものを紹介していく。講義読本というよりは、読み物としておもしろく読めました。

特に「携帯のメールは古文の歌(和歌)である」というのにはついついうならされてしまい、現代の「文章のシチュエーション」とでもいうものに対する、作者の深い洞察に恐れ入ったりします。

逆に「ワープロを使うと堅苦しくなる」といった勘違い(?)もあったり。まあ、ワープロがペンの代用品であった時代でならイザ知らず、今の我々(少なくとも自分は)ペンとワープロ(PC)は別の「意味」を持った文房具であって、まあ、代替といっても自転車と自動車ぐらいの差はあるのです。(どっちが良いとか悪いとかは全く別の問題です。)

キーボードを打つ作業によって思考が止まることはないですし、口調が特に変わるというものでもないでしょう。それどころか思考の速度≒キータイピングの速度についてこれるノートPC、あるいはIMを探すというのは、ペンと原稿用紙で文章を書く人が手にあった万年筆と完璧な滑り具合の原稿用紙を探し歩くようなものです。まあ、この辺は時代の違いもありますし人それぞれなので、感じ方が違うのは仕方のないことだとは思いますが。

書いてあることそのものは小学校の作文の授業で習うようなことばかり(同じ接続詞を連続して使うな、とか、句読点の入れ方に注意しろ、とか)なので、先生の趣味でさんざ作文を書かされた身としては「んなこた当たり前のことじゃねぇかよ」と言いたくなることも一度や二度ではないのですが、それらが大人になるまで覚えているか、あるいは身に付いているかと言うことはやはり全くの別問題。もう一度、再確認してみるのも一興でしょう。(もちろん、このブログとてそう言った「お約束」を踏まえているなどとはとうてい言えない訳でして・・。)

様々な場面で応用できる、なかなかの良書だと思いました。

投稿者 ogre : 2004年12月19日 | コメント (0) | トラックバック

2005
02 07(月)

レキシントンの幽霊・ふたたび

レキシントンの幽霊

レキシントンの幽霊

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村上 春樹
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全般的な感想につきましては、以前のエントリーをご覧下さい。

・・・勘のいいお客さんならもうお気づきだろう。
たしかに「レキシントンの幽霊」は素晴らしい短編集だが、今日話したいのはそのことだけじゃないんだ。

トニー滝谷、映画化なんで誰も教えてくれないんですか!(知るか!(笑))

しかも主演はイッセー尾方! 予告編はコチラ

この短編集の中では一二を争う怪作(褒め言葉)なんですよ、これが。ちょっと前の微妙にサイコ入ったキャラクターの裏に見え隠れする過去。語られる愛。しみ出す絶望。
これをどうやって映画にしているのか。これはゼヒ観なきゃ!観ないと!ああっ!もうやってるし!

先週末は風邪で死んでましたし・゜・(ノД`)・゜・。
(お願いだからあと一ヶ月ぐらいはやっててくださいよ・・・)

投稿者 ogre : 2005年2月 7日 | コメント (0) | トラックバック

2005
03 08(火)

完全パンクマニュアル はじめてのセックス・ピストルズ

完全パンクマニュアル―はじめてのセックス・ピストルズ完全パンクマニュアル はじめてのセックス・ピストルズ

自分は幸か不幸かパンクやらロックやらに深い縁もなく数十年生きてまいりまして(iTunesに一番多いアーティストはTMNなんじゃないかってぬるさでして)、まあ、当然、ンな本を買うことなんざ普通なら一生無いんですが。

いやもう、こればかりはもう人の縁(えにし)と申しますか、友達っていいなぁっていうか類は友を呼ぶというか。(え?)

とにかく猛烈に褒めるヤツがおるもんですからAmazonでワンクリックしてみた訳です。

・・・30ページでザセツしました。

そこで腹筋が痛くなったんです(爆)

いやもう、引用を始めると全文引用してタイホされるしか無くなりますので一言も引用できません。いや、しかし、そうですね・・・あえて一言だけ、引用しましょう。

「パンクとは音楽の1ジャンルではなく、生き方である」

嗚呼、この一言がこの本のすべてを支えているのです。幸か不幸か。

自分は正直なところセックス・ピストルズもシド・ヴィシャスも名前しか知りませんが、しかしこの本で十分です。あまりに十分すぎるので友人からセックス・ピストルズを借りたりもしません。(注:決してCDショップでピストルズを買ってはいけません。当然1-Clickで購入するなぞ冒涜の極みです。(どうでもいいですがどうして1アルバムしかないバンドにベスト版が存在するのでしょう?詳しい方、教えてください。(できればパンクな説明ではなく、せめてハードロックぐらいで。))

えっとでなんでしたっけ、ああそうそう、そんな訳でパンクの普及には多分一厘たりとも寄与しない本書はおそらく最高にオススメです。

そんな訳で、30ページ目以降を読みますので失礼します(を

2005/03/09 追記

そしたらこの本のモトネタはコチラのサイトみたいだそうで。
いや、これでは電車男本を笑えません。失礼しました。

でも、サイトをReadMe!に登録するのはファッションパンクだと思います

投稿者 ogre : 2005年3月 8日 | コメント (4) | トラックバック

2005
03 23(水)

ライトノベルワールド

のべるぶろぐさん「ライトノベルを買うのは誰か?」というブログを読んでインスパイア。そういえば最近は富士見書房の本も電撃の本も買っていないなぁ、と思った次第。でも「戯言シリーズ」とか買っているので、ちょっとばかり方向性が変わっただけで本質的には変わっていないのかも。

クビキリサイクル―青色サヴァンと戯言遣いクビキリサイクル―青色サヴァンと戯言遣い。西尾維新は大変オススメ。

自分は「スレイヤーズ」にはあまりハマらず、「ロードス島」よりは「ドラゴンランス」が好き、で、おそらくはこのブログで引き合いに出されている世代よりわずかに上でしょうか。
かつて隆盛を誇ったライトノベル(という言い方は最近の話ですよね)も一時期陰っていたような気がしますが、新書でのライトノベルが増え続け、富士見・電撃が平積みの領域が広がっていくのを見て懐かしさを感じつつあるのですが。

「僕たちは…私たちは…小説にイラストがついている事に違和感を覚えない最初の世代だ」

という言葉にうんうんと頷いてしまいました。
もっとも、「ライトノベル」という括りそのものが昔よりも広い意味で使われている気もします。先に挙げた「ファウスト」系のノベルズなんかは、昔だったらまた別のというジャンル(なんですかね、ライトミステリー?ジュヴナイル?)で、ファンタジーやライトSFとは微妙に一線を画していたような気がするのです。「魔界都市」シリーズや夢枕獏氏のような作品はまた「伝奇物」という別カテゴリであったり、まあ、このあたりは本当に微妙っちゃあ微妙なんですが、でも一括りになっていなかった。うーん、表現が難しいですね。今でも一括りにしたら怒られるような気もしますし。
「ライトノベル=アニメ系イラストのついたノベルズ」という意味なのかなぁ。でもそれってコマーシャルの仕方であって内容とは関係ないですしね。

「ライトノベルってのはどんなののこと?」というのは、宿題にしておきましょう。

さて。

なかにはまあ、便乗といいますかなんといいますか、どうにも納得のいかないのもありまして、今回は良い機会なのでそれを槍玉に挙げたいと思うのですよ。
ヴァンパイヤー戦争〈1〉吸血神ヴァーオゥの復活ヴァンパイヤー戦争〈1〉吸血神ヴァーオゥの復活
たとえばこれ。
このシリーズは、10年ぐらい前にも文庫で出てまして(今手持ちの資料を調べたら文庫版1巻は1989年でした。10年どころの騒ぎじゃねぇ(爆))、確か天野喜孝さんが挿絵を描いてた記憶があります。白黒の(そりゃそうだ)線画+ベタの絵で、原稿本の路線とは194度ほど方向性が違います。内容的にどちらかといえばワイルド&バイオレンスな展開なので、えーと、どちらかといえば「キマイラシリーズ」みたいな感じを想像して頂ければよいかと。
キマイラ〈1〉幻獣少年・朧変キマイラ〈1〉幻獣少年・朧変(さすがにソノラマ文庫版の「幻獣少年キマイラ」は在庫切れですなー。)
ええっとつまり何が言いたいかというと、

とりあえず表紙だけ萌えアニキャラ風にしておけば売れると思ったら大間違いじゃねぇのか講談社ということなんですが、結局11巻全巻再版されてしまいました。(まあ、当初からの予定だったんでしょうけど。)

最初の文庫版当時は、どういう訳か4巻目以降ぐらいから本屋で見かけなかったような気がするのですが・・・。(気になったのでちょっと調べたところ、文庫版は1991年までに11巻までが発売されている模様。当時自分が行きつけの本屋で売れなかっただけなのかなぁ。)

つかあまり萌え系とかアニキャラ系の表紙にすると大人が買いにくいからカンベンしてください。そういう商業主義がアマゾンでのワンクリック大人買いと既存書店の衰退に繋がるのですよ(えー)

それはともかく。

のべるぶろぐさんもおっしゃっておられるように、「選択に迷うくらいたくさんの」ライトノベルがあふれる今日。しかも昔ほど買うのにハズカシ感がないこの時代。(そういう感じありませんでした?自分だけ?)いざとなりゃアマゾンだってあるのだし。こんな時代に生きる若い世代はいいなぁ、と年寄りは思ってしまいました。

そういえば、ドラゴンランスはエンターブレインから再版されてますが、同じ作者(マーガレット・ワイス&トレイシー・ヒックマン)で、どうにも途中で翻訳刊行打ち切りになったくさい「冥界の門」とかはもう再版されないんですかねぇ。「ダークソード」シリーズはなんとか最後まで出たんでしたっけ?

えっとなんの話でしたっけ。大体ワタクシのブログはグダグダになって終わるのがいつものことなので今日もこんなんでおしまい。

投稿者 ogre : 2005年3月23日 | コメント (0) | トラックバック

2005
04 13(水)

遅れてきたコトの優越

すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER冷たい密室と博士たち笑わない数学者―MATHEMATICAL GOODBYE詩的私的ジャック封印再度―WHO INSIDE幻惑の死と使途―ILLUSION ACTS LIKE MAGIC夏のレプリカ―REPLACEABLE SUMMER今はもうない―SWITCH BACK

べつにアマゾン・アフィリエトを山ほど並べてもうけようってんじゃありません(笑)
純粋に「今、自分の部屋で展開されている光景」を再現してみまってところ。
知っている人には説明もいらない、森博嗣・S&Mシリーズ(講談社文庫)のうち、今のところ、部屋にある分、です。

マァあとは説明の必要もないですが、つまりハマっていまして(笑)
「すべてがFになる」だけは1年以上前に読んだのですが、最近になってまた読み始め、S&M全10巻はもはや半ばも過ぎてあと少しを残すのみ。かえって寂しいものです。

で、「遅れてきた」話なんですが、つまり、こういう大ヒットして既に評価が与えられたものにしても、実際に読んだり観たりしていないものはずいぶんあるわけです。話題になった当時は面白く感じなかったのかもしれないし、別のことに興味があったのかも知れない。そしてシリーズ完結し、その他の外伝も出そろったところでハマる。これはこれで楽しいものです。

シリーズを追いかけながら「次はいつかな〜」と待っているのにも趣がありますが、シリーズ一気に読み切って世界にどっぷり浸かれるのもよい。(邪道と言われそうですが。)
次を待つのもいいですが、待たなくて良いのはさらによい。まあ、勢い余ってまだ文庫化されていない領域に突っ込んでしまって困る、とか、シリーズがまだ続いてて突き当たってしまい、身を倍に焦がして次感を待たなくてはいけない、とかの問題は時々ありますが・・・。

ちなみに自分の中で「これはいくらなんでも今から行ったらマズイだろう」と思うのは、

グインサーガ 100 豹頭王の試練グイン・サーガ(100巻てなんだよ・・・こち亀かよ。)

ガラスの仮面 (第42巻)ガラスの仮面 (途中で(以下検閲削除)

そしてなにより
アンドロ・ペストペリー・ローダン

原作は既に2000巻を越え、もはや人生のすべてを投入しても追いつけないであろうコトは明白。ちなみに上記最新邦訳は308巻目。

投稿者 ogre : 2005年4月13日 | コメント (0) | トラックバック

2005
04 14(木)

太陽の簒奪者:野尻抱介

太陽の簒奪者太陽の簒奪者 野尻抱介
Jコレクションシリーズ版が出た時には「へぇ〜、星雲賞ですかぁ〜、でも大きいからいいや(を」という理由で保留した「太陽の簒奪者」が文庫で登場。ま、紹介文はアマゾンあたりで読んで頂くものとします(を

さて野尻抱介氏といえば、「ヴェイスの盲点」にて作家デビュー、とされていますが、その出自は今は無きゲーム企画会社「ホビー・データ」の実施したネットゲーム(メイルゲーム)「クレギオン」におけるゲーム・マスターです。これは、プレイヤーが郵便で自分のキャラクターの「行動」をゲームマスターに提出し、ゲームマスターが各キャラクターの行動を取りまとめてストーリーとして送り返す・・・というシステムで、約1年で1ストーリーが完結するという今にしてみれば気の長いゲームです。もちろん、インターネットはおろか、パソコン通信だって「一般的」と言える時代ではありませんでした。参加者達は郵便・電話・FAX・オフ会を通じて交流し、ある者は物語の焦点へ、ある者はその辺縁でダラダラとすごすという愉快なゲームでした。
さて、当時自分も「クレギオン」に参加し、たまたま「野尻マスター」にあたったのです。(もちろん当時は有名作家ではありません。)なので、ある意味「ヴェイスの盲点」以前から「野尻ワールド」に触れてきた、という自負もあります。

以前、小説「クレギオン」シリーズの序盤で、自分は「あれは長い「リプライ(ネットゲームでマスターから返される物語」だ」というイメージを持ちました。それなりの枚数があるにもかかわらず、イマイチ盛り上がりに欠ける文章、キャラクターは立っているのに「台詞を読んでいる」以上のイメージが持てない感じ。じゃあつまらないかというとそういう訳ではない。その違和感の正体が、この「ハードSF」によって明らかになりました。
そう、この物語は「ハードSF」なのです。近未来を部隊にし、そこに住む人類は今から想像しうるだけの能力しか持っていない。宇宙を望遠鏡で覗き、核エンジンがやっとこさで、太陽系開拓など想像も出来ない人類。そこにはミュータントや超空間航法といったスペース・オペラ的な存在や、巨大ロボットや宇宙戦闘機のようなSFアニメ要素も全くない。もちろん美少女も天才科学者も正義の宇宙人も一切なし。その極限までに絞り込んだ「リアリティ」。(それでいて後書きでは「でも嘘をついてしまった」と吐露する。)ただそれを淡々と書き込むために、思わずそのノリについて行ってしまう。なんだか盛り上がりに欠ける人間模様も、イマイチ浮かんでこないキャラクターも、その流れに乗っていってしまう。(もしくは、両立させるコトが不可能だったのか・・?)
ある意味強引な力強さ。それを可能にするだけの(色恋や人間離れしたキャラクターを必要としない)筆力は恐るべきものだろうと思う。

クレギオンシリーズで、巻を追う毎に、愉快なキャラクターに押し立てられるように物語に起伏がついてきた(=自分は方向だと感じた)と感じていたのだけれど、「真のSFにそんなものはいらない」と言わんばかりの野尻節。10年以上前、惑星フラードルで「BARくびながりう」を閉店に追い込んだ時、野尻さん、あなたは確か、似たようなことを言っていましたよね。

野尻抱介という作家さんにはがんばって欲しい。でもどういう風にがんばって欲しいのか、残念ながら今の自分には上手く言いあらわせない。仕方がないので「クレギオン」シリーズを読み返すことにする。

投稿者 ogre : 2005年4月14日 | コメント (0) | トラックバック

2005
05 12(木)

定刻発車―日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?

定刻発車―日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?定刻発車日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?
狙った訳ではないのでしょうが、今、この時期に文庫化されることには不思議なものを感じます

日本の鉄道は世界に類を見ないほど正確であることはよく知られていますが、本書を読むとその「正確さ」が我々の想像以上のものだと思い知らされます。明治の鉄道黎明期から大正、昭和と作り上げられてきた「定刻ダイヤ」への道。戦争を乗り越え、今や2分間隔は当たり前の「超過密ダイヤ」が日常のものとなっています。

しかしその裏で、一体どれほどの人がどのような作業を行っているのか。しかもそれを「特別なこと」ではなく「あたりまえのこと」として遂行できることのすごさ。5分から10分の遅れがニュースの題材になり、台風が来ても翌日の新幹線が「平常通りの運行」をするということの一種の異常性。(それだけ普段が定刻運行だ、ということ。)数百万人が集中するターミナル駅が正常に動作している不思議。
それら我々が「あたりまえ」に考えてしまっていることを、もう一度考えさせてくれる、そんな本です。

ちょうどあんな事故があったばかりで、確かにJR西日本の企業体質や安全性二の次の収益重視の態度は批判されてしかるべきでしょう。しかし数分間隔の「超過密ダイヤ」や「遅れが出たら取り戻すべくテクニックを駆使する」ことを非難することが出来るでしょうか?

「超過密ダイヤ」がなければ、各大都市の経済圏は大幅に縮小し、人はよりぎゅうぎゅう詰めの列車にのり、会議の予定には大幅な余裕を見て出発することになるでしょう。

正直なところ、大都市の片隅に住むものとして、現在より電車が間引いて運転されるとか、5分ぐらいの遅れが当たり前のものになるとか、そういうことはあって欲しくないし想像もしたくない。そして定刻運行をするために尽力する鉄道会社の方々に敬意を表し、感謝を捧げ、より一層の安全運転と定刻運転を祈念するものであります。(乾杯の音頭みたいだな。)

・・・思うに「2分間隔なんて異常ですよ」とか「遅れたら遅れたでいいじゃないか」なんて言ってるワイドショーのコメンテーターは、1ヶ月ぐらい通勤2時間ぐらいのサラリーマン生活を送ってみるといいのですよ。

投稿者 ogre : 2005年5月12日 | コメント (0) | トラックバック

2005
05 21(土)

のだめカンタービレ12巻

のだめカンタービレ #12 (12)のだめカンタービレ(12)

どういうわけか「二ノ宮和子」で検索をかけてくださる方が多いんですよね。というわけでご期待に応えて(?)レビューです。

千秋のコンクール編が終わって、今回はどちらかといえばのだめの回。ただまあなんか「のだめ壊れる→千秋奮闘→のだめ復活→千秋変態化→ぷぎゃー!」っていうパターンの踏襲というか、さすがにこの流れも飽きてきたというか。(千秋に「またか!」と言わせているあたり、確信犯であることは確実です(笑))
今回は、絵描きさんのエピソードも加えたりしてなんとかマンネリ打破を狙っている感じですが、新キャラの投入でなんとかしようというのはそう長くは続かないと思います(笑)。まあ、一度パリに来てそのあたり「リセット」してしまっているというのは「うまい事考えたなー」という感じですが(笑)。メインキャラが10人越えたらドイツにでも行きますかね?
千秋の居ぬ間に黒木くんがメインキャラとして登場して13巻へ続く。なかなかいい引っ張り加減だと思います(えー

いくつかTBをもらったのでトラバしかえしました。
コチラは作中の音楽なども合わせて紹介されています。
コチラでは「SオケTシャツ」の紹介も。(んなもんよく作るよなぁ。)

(同一サイトからの連続TBについては削除させていただくこともあります。)

投稿者 ogre : 2005年5月21日 | コメント (0) | トラックバック

2005
05 29(日)

MASTERキートンが消える!?

MASTERキートン (1)
時代を取り込み、また時代を先取りするようなストーリーが秀逸だった浦沢直樹・MASTERキートン。アニメ化 されたのはそんなに前のことじゃないよなぁ、と思って調べたらやっぱり99年ぐらいでした。(去年ぐらいに再放送もやってましたね。)
そんなMASTERキートンが絶版の危機にあるとか。(ARTIFACTさんの記事。)迂闊にもまったく知りませんでした。原作者の扱いを巡って原作者本人、ではなくその友達の美味しんぼの原作者と一悶着あるとか。
どうやら美味しんぼの原作者はリアルに海原雄山だったりするようです。(嘘です。)
大好きな作品ですのでコミック一式ちゃんと取ってありますが、こういう素晴らしい作品が消え去ってしまうことには一抹の不安を感じます。
だってほら、これを読んでおけば灼熱のタクラマカン砂漠からも生還できるかも知れませんし。(できません。)

投稿者 ogre : 2005年5月29日

2005
06 08(水)

そんなこともあるのか。

今さら、といいますかなんと言いますか、

鮮烈巻頭カラー・新連載!!?あれから10年。?桜道会会長に就いた三上は、?大阪の地で「あの男」の存在を感じ取る! 『麻雀飛翔伝 竜・外伝』?(能條純一)
竹書房hpより)

・・・能條センセは、モーニング連載の「セイ」があっという間に打ち切られたので怒っていらっしゃるんでしょうか?(でもあれも半分以上麻雀シーンだったような気もしますが。) 「月下の棋士」の次がアレではねぇ・・・。
「竜よ!竜よ!そのオメェの運をワシにくれぇぇぇっ!!」と、叫びたいところなのでしょうか。

そりゃそうと、次回のスペリオール(金曜発売)は買いです。

西原理恵子がPLUTO』を描く!?

もちろん、期待します(笑)

投稿者 ogre : 2005年6月 8日 | コメント (3) | トラックバック

2005
07 04(月)

現実逃避

げんしけん
もはや現実逃避以外のなにものでもなく、Amazonのワンクリックに責任をかぶせながらも、やったモン勝ち、案ずるより買うが安く、人間万事スーホーの白い馬。

しごとしたくねー(えー

(↓各巻へのリンクはextendに!(いらねぇよ))

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投稿者 ogre : 2005年7月 4日 | コメント (0) | トラックバック